志木市 敷島神社 田子山富士
以前、所沢市の荒幡の富士の記事を書きました。
女性が憧れる素敵なスタイルの友人Yさんのオススメの場所でした。
その後、冨士塚に興味を持ちました。
今回は、埼玉県志木市の「敷島神社 田子山富士」へ出かけました。
石の道しるべの所を入って行きます。
「道しるべ」は、明治5年(1872)造立
現在は参道入り口にありますが、元は、本町通りの角にあったもので、田子山富士塚への道を示しています。
富士塚築造発起人 高須庄吉の改名前の名が記されています。
敷島神社 田子山富士 入口付近。
細田学園のすぐ近くを通ります。
車で入れますし、駐車場もあります。
境内に入ると、正面に「田子山富士」が現れます。🗻
田子山富士塚は、高さが 8.7m 長径が約30mの楕円形をしており、江戸時代後期から明治時代にかけて関東地方を中心に築かれた富士塚の一つです。
頂上には木花開耶姫命を祀った祠
麓には、里宮と呼ばれる浅間下社があります。
優れた細工が施された石造物があるそうです。
御胎内(おたいない)が現存していることも見どころだそうです。
子供用の遊具があります。
この日は、冨士塚に登れない日だったようです。
富士塚とは
江戸時代中期(18世紀後半)富士山に対する信仰が広まり、富士山への登拝が盛んになりました。
信仰のよりどころとして、また、富士山に登ることができない人も実際に参拝したのと同じご利益が得られるとして、関東地方を中心に富士山を模した人工の塚が作られるようになりました。
田子山富士塚の成り立ち
明治時代初め、引又(現在の志木市本町)に住む高須庄吉が、田子山の頂上で、富士信仰に関わると言われる板碑を発見しました。
富士信仰に篤かった庄吉はここに富士塚を造ることを思い立ち、自身が属する富士講の一派である丸吉講が中心になって明治5年(1872)に田子山富士塚が完成しました。
築造にあたっては、新河岸川の舟運で栄えた地元の商人・舟運関係者・職人・農民はもちろん東京・栃木・新潟・福島・岐阜・などからも寄進がありました。
塚に設置された石造物から2,400人を超える人々から寄進があったことが分かります。
塚中腹にある経ヶ嶽の玉垣には、明治時代のはじめに活躍した坂東三津五郎・尾上菊五郎・岩井半四郎などの歌舞伎役者の名前も見られます。
現在、田子山富士保存会を中心に7月最初の週末に「山開き」、8月21日に近い週末に「山仕舞い(お焚き上げ)の行事を行っています。
冨士塚御胎内の入口
冨士塚の裏側にあります。
田子山富士塚の御胎内は、明治5年(1872)に、当時の宗岡村(現在の志木市宗岡地区)にあった富士講である丸藤講の人たちにより、関東ローム層(赤土)を掘って作られました。
奥行き16.2mのA路線と、7.3mのB路線があります。
御胎内のほか、「是より御胎内道」の道標と、「御胎内浅間託宣碑」も、丸藤講により寄進されました。
富士講では、富士山の溶岩樹型洞くつを体の内部のようなので「御胎内」と呼び、入って出てくると、生まれ変わって心身ともに清められると信じられてきました。
また、浅間神社の祭神である木花開耶姫は、安産・子育てと火除けの神様と信じられてきました。
田子山富士塚では、妻が産気づくと夫が御胎内へ入り、奥に祀られていた仏像に安産を祈願したといわれています。
手水舎
ここで手を清めて拝殿などをお参りしました。
敷島神社拝殿
敷島稲荷神社
琴比羅神社
お不動さま
不動明王さまは、仏尊の代表的存在である「大日如来さまの化身(教令身)」です。
明治時代に敷島神社ご本殿が創建される以前は、この地にあった宝幡寺の仏さまとして、田子山富士塚の東方にお祀りされており、富士塚「お胎内」の大日如来さまと共に、仏の信仰の中心でした。
創建時代は不詳ですが、参詣者数日本一の寺院で真言宗大本山・成田山新勝寺より勧請された霊験あらたかな仏尊さまです。
ご仏德は、燃えさかる炎であらゆる障害と煩悩を燃えつくし、人々を教え導きます。
カッパの郷 志木 たごちゃん。
志木市は、カッパで有名なようです。
市内に河童像がたくさんあるようです。
石燈籠
明治6年(1873)造立
引又や近隣の寄進者の名が記されています。
友人たちに面白い所などを教えてもらって行ってみよう。🎵